昭和40年12月27日 夜の御理解
一生懸命という事を云いますけども、一生懸命と何時もかつもでける事ではないですけれども、やはり信心も時々は一生懸命にならなければでけません。例えばこの夏頃から非常に、若先生が帰ってきた当時は、一月間大祓の心行をやっとりまして、修行生の方みんな一緒に、その一人一人が何日かおきにか先唱をやるんですね、中々一寸出来ません。皆さんに一寸やってご覧なさいと云っても。
仲々出来んです、只たかまのはらにと云うて、そろっと云うたら、出けるかも知れんけれども、本当に腹の底から、本当にそれこそ地声を出さなければ、あれはでらんね、一生懸命というのは仲々、大祓の先唱ひとつするということでもです、実はなかなか難しい事ですけれども、やはりそこを、一辺通らなければ、大祓ひとつが人の前で、まともに上げられませんのです。
本当にあの一生懸命という事はね、だから一辺そこ一生懸命をやり抜かせて頂きますとですよ、例えば中野さんに先唱しなさいと云うたら結構やるでしょう、あの時に一生懸命通りぬいとるから、ね、徹さんに先唱せろと云うたら、お父さんより返って上手でしょうあん時にやりぬいとるからね。今日今日渡辺先生が今毎日日参があっとります。学校冬休みですから今この内に本気で打ち込んで行きたいとこう云うわけですね。
いわゆる一生懸命なんですあゝいう、いうなら純真な方ですから、神様に向けても実に純真ですね。ですからもう頂く御理解がひしひし自分のこれに入っていくんです、もう行きも戻りも有難うてたまらん、今日なんかも朝電車に乗らせて頂きましたら、どの箱もがらっと空いてるち云う訳ですね、それで一番後の方から、段々向こうの方へ、三つの箱に渡って行きながら、何人ずつか乗ってる人にですね。
どなたにも、そこに入って行く時に皆さんお早よう御座います、と云わにゃおられない。脇から見たら、ちった馬鹿じゃなかやろかち、云うごたるけれども、やはりそうなんです。昨日もこゝから、有り難うして有り難うしてならんで、帰りよりましたら、どっかその飯田あたりから、その妙な青年の人が、満員バスの中に乗り込んできた。あすこになんさまかありますよね。
福寿園かなんか、あすこへ長く修業にきとんなさるとじゃろと私は思いました、も、手も足もこうこう云うならこうこうずうっとゆれとる人がおります、首でんず-っとちょいと何か病気でしょうたいね、手も足もこうゆらゆらしとる、それを渡辺先生が見られてからまあ可哀相なぁ思うたち。もう自分の子供ならどうしようかいと思ったら、久留米までずうっと、後からこうやって抱いて云ってあげたち。
そして金光様、金光様ち云うてその 抱いて行ってあげた。まあ私聞きってからでも、言わばおかしいんです、けれども、その一生懸命の姿は、恐らく誰でも、笑ってはいないでしょうね、そん時は。私大体思えば、想像がつくのです。はぁあの人じゃろ、と思うんです、ですがもう、も本当聞きよると、おかしい様ですけれども、実際渡辺先生が、一生懸命のですね、
もう本当にこういう手がね、こうこう、もうずうっと顔でも何でもゆれ通しですもん、首でもこうこう こうなんか蒟蒻のごとしとんなさるです。まるきり人間こんにゃくのごたる、こんにゃく病でしょうね、ありゃちがわんごと。そういう人なんです、聞けばおかしいごたるですけども、実際本当に可愛そう、気の毒な これが自分のもし子供ならと思うた時にですたいね。
もう ここん柱に頭をもってきなさるごたるげな、だけんこう後から抱きついてから、金光様金光様ち云うて、それを一緒に ちょっと変わったばさんじゃあると、思うたかも知れんけれども、おかしいとは思わなかったと思うです。その話を聞かせて頂きよりましたらね、御心眼にお相撲さんが、いわゆるフンドシひとつで、しめをはっておる姿、それをこう真正面から、ヘソの見える ヘソのところを頂くです。
これが普通だったら、おかしな事でしょうね、大きな男が、真っ裸になってからあなた、ヘソ出しとるというたら、それこそ、それでもおかしいでしょう。ところがあれが一生懸命である証拠に、おかしくないでしょうが、あれにサルマタどんはいて、上からパジャマの様な着とったらおかしい、かえっておかしい。あの しめの事を一生懸命と、神様仰るですもんね。
あれはあの相撲取りが土俵の上で、例え投げ殺されても文句は云いません、と云う様な、一生懸命のものを現したものだそうですが、そのしめとですね、いわゆるその前のヘソが出とるけれども不潔な感じもしなければ、おかしいとも思わないという様な御心眼だった。本当に渡辺先生のその一生懸命の時にです、その姿はちょうど相撲取りが、ヘソを出してから土俵のうえに、上っとる時の様なもんじゃなかったじゃろうかと。
私は思わして頂いた。皆さん本当に一生懸命 一生懸命やはり何時もかつもそういうわけにはまいりません、ね、一生懸命というのはけども一辺そこを通らして頂くと、先程の大祓先唱のことじゃないですけども後は楽ですもんね、そげん一生懸命ならんでも、先唱が出けるです。私共でも本当に今から考えますと、今あんな事しろったって出来やしません電車中であろうが、汽車中であろうが一生懸命お道の話をするんです。
横に座った人が、いわば、今から考えれば迷惑なもんですねえ、けどもそれがもう私にご縁が近づきが出けたんだと思うから、お話かけにゃおられない、御本部から何かもう、あの腰掛けの上に立ってから、もう一生懸命でお話を致しました。一辺でん秋永先生あぁたも話しなさい、というたけん秋永先生、あの上に立ってから、一生懸命私がしよった通りに話すんですね。
次は又私が話すんです列車の中で、聞く聞きよらんは問題じゃない。けれども確かに私が汽車ん中でも一生懸命話しよりますとですたいね、皆さんなその聞耳を立ててから、後も前も一生懸命聞いて下さるんですよ。おかしくないのです、いわゆる辻説法なのです、ね、妹が善導寺の何か殖産会社の様なのに、しばらく勤めとりました。私は福岡から丁度あの 大城の電車を利用致しますからあすこの前を通って帰ってくる。
私がこの人の兄さん ことを知らんのですあす。この課長になる人が、何時も破れ鞄下げちから、破れ靴履いてから通らっしゃるが、あの人はただ人じゃなかばの と云うてからその妹に云われた、という様なものがです、どんなに例えば破れ靴履いとっても、破れ鞄下げとってもです、それが見る人をして何か感動を与えなきゃおかんのです、それはおかしい事ないです。一生懸命時だからなんです。
皆さん何かの私ゃ一生懸命ならなければです、本当に神様に通わんと思うですねえ、ですからどの様な事の中からでも良いから、本気で一生懸命もう人が見たなら、ほんに馬鹿じゃなかろうかと笑うもんな笑えです。そして一生懸命それをなす時には、決して笑われちゃおらんというです。もし笑われとるごたるならまあだおかしい、おかしい程度であって、一生懸命じゃないという事を悟らせて頂かにゃいかんとおもうですね。一生懸命の姿にはうたれます、まして それが神様に打向うておる一生懸命である場合です。
それこそ こんにゃくのごたるとは、こうやって後から、その抱いてからしとってあげたっちゃ、おそらく神様が教えて下さるように、相撲取りが真っ裸で、土俵の上に立っとる様な風にしか見えなかっただろうとこう思います。あの人は何か信仰か何かある人じゃろ、何とまあ親切な人じゃろかと。いう様なものしか与えられなかっただろうと、こう思います。ね、私共は本当に何ですかね。お話を頂いても、信心を進めていっても、感動のない人があります。
冷たい感じで、只聞いておるというだけ、ね、やはり信心には、どうでもこの感動が必要です感動するくらいなものが必要です。本当にもう 御理解頂きよったら、そう実行しなければおられないといった様な、もりもり湧いてる位なですね。その実行力の人は必ず感動にその強い方です、感動の強い方です。どうでもひとつ、一生懸命の信心をです、私はその さして頂かなければならんと思いますですね。
第一この一生懸命なっとる時にはですね、いわゆる何と申しますか、その信心が一生懸命なっとる時にはですね。先ず惜しい欲しいがありませんです、非常に薄いもの薄うくなってくるです。も一生懸命の御用さして頂くという事がです、例えば一生懸命のお供えでもさして頂く事がです、もうこれが出けておる事が有難うしてこたえんごとなってくるです。そこに、我が身は神徳の中に生かされてあるという様な喜びが許されるのですよ。
どうぞ。